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徳川家康、秀忠、家光が崇拝し江戸に貢献した「天海大僧正」

江戸時代の初代将軍の徳川家康から2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の三代に渡り参謀を務め目覚ましい活躍をした慈眼大師(じげんだいし)の「南光坊天海僧正」という僧侶がいた。

天海大僧正は100歳以上のご長命であった。東叡山

徳川家康は、天海大僧正の出会いが遅過ぎたことを悔やみ、死後をも託したほど天海大僧正を尊敬し信頼をしていた。

天海大僧正

謎に包まれた部分が多く残され、長寿だったことから、豊臣秀吉との天王山の戦いに敗れた明智光秀が生き延びて天海大僧正に変わった、などのとんでもない奇説まで世の中を巡回していた。

家康の死後、天海大僧正は「山王一実神道・さんのういちじつしんとう」(平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派)に基づく江戸の改革をおこなった。

東叡山寛永寺

江戸城から見て陰陽道で鬼門とされる丑寅(北東)の方角にあたる上野山に東叡山寛永寺を建立した。
これは、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄上人(でんぎょうだいしさいちょうしょうにん)が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったもの。

東叡山寛永寺

東の比叡山の意味で東叡山(とうえいざん)とし、京都と同じように都を守る役目を担わせた。

こうして山号は、東叡山になり、寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。

山を降りたところに位置する不忍池の中には不忍池弁財堂があり、これは琵琶湖弁財天に見立てたもの、また清水寺を意識した清水観音堂や五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。

やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇りました。

江戸城

功績

このように天海大僧正は徳川家康の精神的支柱として側近になり、徳川家の神格化に奮闘し陰陽道や天文学、天台学、儒教、易学、軍学、風水などを駆使して江戸鎮護を構想した

江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされ、鬼門や裏鬼門などを重視していたことがうかがわれる。

今でも、江戸三大祭りとして盛大に執り行われる、神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭は天海大僧正により江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたという。

天海大僧正の逸話

他にもたくさんの功労がありますが、逸話もたくさん残しています。

逸話:ある時、将軍・徳川家光から柿を拝領した。天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と徳川家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。数年後、徳川家光に天海から柿が献上された。家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたという

引用:Wikipedia

天海大僧正は長寿の秘訣を歌に詠んだ
「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(おなら)あそばさるべし」とあります。

なんと、おならで締めくくるとは、人間味あふれるお方だったのですね。

参考:Wikipedia寛永寺

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