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荒川、墨田川は荒川放水路の歴史

荒川、墨田川の命名はつい最近です

江戸時代から市街地を守るための洪水対策が行われていました。

日本堤や墨田堤はその名残のようです。

現在の荒川や墨田川は荒川放水路が65年の(昭和40年)3月24日に河川法改正に伴って正式に墨田川と命名されました。


荒川、墨田川

1965年って、まだ50余年しかたってないけど、有名な古くからある川だと思うけどそんなに新しいのか不思議ですね。

荒ぶる川

荒川の水源は埼玉、山梨、長野3県にまたがる甲武信ケ岳です。

江戸時代には利根川と合流していましたが利根川を東遷し、荒川を西遷しました。

東京湾にそそぐ延長173kmの一級河川です。

荒ぶる川の名の通り、江戸時代も明治時代も洪水が頻発し人口急増の東京の庶民を苦しめました。

明治43年の大洪水では、東京の下町で浸水家屋27万戸、被災者150万人という甚大な洪水被害を決起に荒川放水路が計画され、17年の長い歳月を要し難工事の末 完成しました。

荒川の岩淵水門から江東区、江戸川区の区界の中川河口まで全長22kmの人工河川です。

荒川放水路が完成してからは、洪水による被害に見舞われることはなくなりました。


荒川放水路

その後も幾多の荒川放水路の工事が行われ、東京周辺の流路が完成をした。

荒川放水路が正式に1965年(昭和40年)荒川本流となり、それに伴い岩淵水門から別れた旧荒川
全体が「隅田川」となった。

それまでは、現在の千住大橋付近までが荒川で、その先の下流域が隅田川と区別されていました。


墨田川

ややこしい話ですが、荒川と隅田川の歴史的な話は荒川放水路なしでは語れません。

この荒川放水路は川を掘った土で堤防を築くのに使われました。

当時、総指揮をとったのは、パナマ運河の工事に参加した経験を持つ内務省土木局の技師青山士(あおやまあきら)でした。

青山技師は、岩淵水門建設にあたり基礎を通常より頑丈にするように指示した。


岩淵水門

川底から20mの深さに鉄筋コンクリート枠を6個埋めて固めた。おかげで、関東大震災でも被害は出なかったのです。

荒川放水路建設にあたり、神社仏閣を含む約1300世帯が移転を余儀なくされた。

特に「木下川薬師 きねがわやくし」として知られた浄光寺の移転は難航した。

浄光寺は860年開山と伝えられる都内最古の寺のひとつで、歴史があり広大な敷地を保有していたこともありから移転先はなかなか見つからなかった。

結局、移転先が決まるまで8年を要した。

荒川放水路概要

明治以降の放水路としては国内最長です。
堀削した土砂は約2180万立方メートルで東京ドーム約18杯分。

総工事費は、大学卒の初任給が35円だった時代に約3144万円に上った。

労働者延べ310万人、犠牲者22人となった。

先人の努力に感謝して、あらためて荒川を墨田川を眺めてみましょう。

参考:Wikipedia荒川下流河川事務所岩淵水門武将ジャパン荒川

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