永平寺2 道元禅師が日本に伝えた「洗面」の真の意味
永平寺の朝
曽洞宗大本山の永平寺の朝は「振鈴・しんれい」と呼ばれるこの鈴の音から始まる。
起床の時刻をつげる振鈴は、夏は3時半、冬は4時半にけたたましく、まだ明けやらぬ七堂伽藍を駆け抜け今日という日が始まる。
と同時に旦過寮系(たんがりょうけい)の雲水の怒鳴り声で皆一気に跳ね起きる。
蒲団をしまい、衣を着て追い立てられるように経行廊下(きんひんろうか)に向かう。
朝の座禅の「暁天座禅・きょうてんざぜん」をするために僧堂に集まる雲水は、音ひとつ立てず、口を開くものもいない。
旦過寮系の雲水は、旦過寮系という職務の雲水で上山してきた新米の雲水に、「叢林・そうりん」(多数の僧侶の集まり住む大きな寺)、いわゆる禅の修行道場での「規矩・きく」(手本、規則)や作法などの指導をすることを専門にしている。
永平寺の作法
道元禅師は、叢林における「行住坐臥・ぎょうじゅうざが」のすべてに作法を定め、その作法を厳格に守り実践していくことが修行であり、そこに現れる一挙手一投足がすなわち仏法に他ならないといわれている。
難行や苦行の修行ではなく、また特殊な超能力や瞑想でもなく日々の行いそのものが修行であり、その行いの中に見出されるものだということです。
悟るための修行ではなく、そのひたすら修行していく姿そのものが悟りだと考えた。
したがって、それは何者かに委ねる者ではなく、修行者の心と体でなしとげなくてはならない。
洗面
例えば、「洗面・せんめん」の作法を中国より伝えたのは道元禅師です。
それまで、日本人には、朝の顔を洗う洗面の習慣はなかった。
道元禅師が書かれた書物である. 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のなかの. 「洗面(せんめん)」の巻にその作法が詳しく書かれています。
なぜ朝、顔を洗うのでしょう。
寝ている間に顔は汚れないと思いますが・・・・
『未だ洗面せずば、もろもろのつとめ、ともに無礼なり」とあり、
修行道場では、着物姿の寝巻きではなく、法衣に着替えてから「手巾・しゅきん」という長い布を首に掛けて両脇にまわして、たすき掛けのようにして衣の袖が濡れないようにし、桶に汲んだお湯で額から両方の眉毛・両目・鼻の孔・耳の中・頭や頬まで、脂や垢をこすって洗うことと示されています。
それは、浄らかな心身で人と接することが礼儀だからです。
身だしなみの大切さもあらわしています。
そして、洗面することは、朝の食事に対する感謝の念の身心でもあるので、自分流の考えではなく、浄不浄を超えた考えで、洗うという思いになります。
永平寺に行った時に、いただいた「道元禅師からのメッセージ」の小冊子にこのように書かれています。
汚れたから洗うのではない。
自らを清めることによって、他をも清め、全世界を清めていく行為が「洗面」である。
顔を洗うことだけでも、こと細かに記されていて、まさに行住座臥、すべてのことが修行なのです。
行住座臥
- 行:行く(歩くこと)
- 住:止まること
- 座:座ること
- 臥:ふせる(寝る)こと
この四つが一切の行動の基本となるため、仏教では特に規律を定めた。
もちろん、歯磨きのことも書いてあります。
お互いに日々、気持ちよく過ごせるようにと相手に対する思いやりの心が根底にあるのです。
今日も善き出会い、縁がありますように。
参考:食う寝る座る永平寺修行記(野々村馨著)、皎月院