医師も不思議がる「子宮頸がん」ステージⅣからの生還・その2
2020年の11月の後半に「子宮頸がん」が見つかったわけですが、その前の数年はCさんにとって、大変な年だったのです。
その1を閲覧がまだな人は、こちらからご覧ください。
前述のように高齢の夫婦が営む「定食と酒」の店に料理の提供と一部料理の担当として働いていました。
下咽頭がんと脳溢血
そんな中、2018年2月に旦那さんが脳梗塞で倒れ救急車で病院へ運ばれ、後遺症もほとんどなく復帰できたものの退院時に行った精密検査で悪性腫瘍が見つかり、2月26日のPET検査で「下咽頭がん」が発覚した。
私が「中咽頭がん」のステージ4でリンパ節に移転し入院をしたことがあり、旦那さんの依頼もあり、築地のがんセンターに一緒に行ったり何を心掛けるとよいのかをお話をしました。
これにより、旦那さんが毎日店に来れなくなり、旦那さんの料理担当部門を引き継いだり、旦那さんの病院へ高齢で満員電車は危険なので朝から同行したり、耳の聞こえも悪く薬の内容の確認や処方の仕方も直接聞くようにして面倒を見ていました。
旦那さんは、喉がすぼまり、満足に声を出せず、嚥下もままならず、とうとう飲食できないため胃ろうの処置をして栄養を補給する形になりました。
そして、抗がん剤と放射線を施術したり入退院を繰り返しましたが、残念なことに2020年1月10日に他界しました。
旦那さんの病院になぜ、女将さんがついていかなかったかというと、店を開店をしなければならないこと2019年3月26日のことでした、女将さんが起きてこないので、旦那さんが見に行ったら普通じゃないので、すぐに救急車を呼び搬送してもらい診察を受けたのです。
すると、診察の結果は「脳溢血」で右半身が不随となり、話すことも立つこともできなくなったのです。
即入院をしてそのままベッドから起き上がれず、意識はあるものの話す事ができず、「寝たきり」になりました。
そんなことで、Cさんが旦那さんと同行しては危険なことを回避しながら病院や必要な手続きや処方に奔走したのです。
時系列のまとめ
話が複雑になりましたが時系列で言うと
- 2018年2月:旦那さんが脳溢血で救急車で運ばれる
そして、その後日、PET検査で「下咽頭がん」が発覚 - 2019年3月:女将さんが脳溢血で救急車で搬送され、そのまま入院「寝たきり」になる
- 2020年1月:旦那さん他界
- 2020年6月:Cさん体調不良、腹痛や頻尿になり、クリニックを3軒いくも「膀胱炎」と診断される
- 2020年11月:Cさん「子宮頸がん」が判明。ステージ4のBです
お判りでしょうか、Cさんは旦那さんの付き添いとして奔走し、お店はひとりで料理提供してたわけです。
人はわからないもの
私は、女将さんが病院に行ったその前日の夜、私は女将さんと話をしていましたが、そんな気配はみじんもなかったのですが、「人はわからないものですね」とはよく聞くセリフですが、まさかのまさかでした。
Cさんにとって、青天の霹靂とはこのようなことを言うのでしょう。
突然、旦那さんが「下咽頭がん」になり、付き添いや諸手続きをし、女将さんが店にでられなくなり、女将さんが担当していた料理部門をCさんが受け持つことになり、さらには、旦那さんの料理も覚えなくてはいけなくなり、教えてもらっていなかった料理を今まで見てきたことや味を頼りに追求し、時々は旦那さんにも確認しながらなんとかこなしてました。
休みは1日もなく働いていました。
子宮頸がんの宣告
それが今度は、自分の身にまさかの「子宮頸がん」を宣告されたのです。
これからの入院のことや病気のこと、お店のことをCさんと話し合うにつれて、Cさんの口からこんな言葉が飛び出ました。「私は死なないからね」と自分にも言い聞かせるように、少し強い口調でいったのです。
この言葉が今でも、とても心に残っています。
こんな事で負けてたまるかと、いい放った素晴らしい言葉でした。
Cさんは強いなと感じました。その通りでそれからの闘病生活で弱音を吐いたことは一度もありません。
次回は、闘病生活と子宮頸がんが消えた背景を掲載する(その3)予定です。
世界の情勢と日本
子宮頸がんは、早期発見で撲滅可能な疾患と考えられています。
2019年1月にはWHO理事会において70か国以上が「子宮頸がんの排除に向けた世界的戦略」を策定する決定を支持しました。
日本は少し遅れた状態のようです。日本では20歳代から30歳代で急増している子宮頸がん、自分は大丈夫と思わずに、認識を高めて検診を試みてはいかがでしょう。