今でも取り入れたい教養と学び「寺子屋」のすごさ
寺子屋は中世に起源とされ学問を指南し、その後江戸時代に入ると、子供たちに読み・書き・そろばんなどを教える庶民の教育施設として広まった。
江戸庶民の賢明さは、民衆の教育水準を引き上げ、世界でもっとも高い国となった。
この、庶民の手によって、少年小女のために全国に伝わり開設された、寺子屋は庶民の自発的な意志によって普及し、『日本教育史資料』によると全国に16、560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも大寺子屋が400-500軒、小規模なものも含めれば1000-1300軒ぐらい存在していた。
教育熱心な江戸庶民
それだけ庶民は武家にも負けじと子供への教育に熱心だったのですね。
前述のように、寺子屋は全くの私的教育施設でったので、今のように6歳になる春に入学するというわけでなく、一定した就学年齢は存在しない。
筆子(寺子)は下はおよそ9歳〜11歳から通いはじめ、13歳〜18歳になるまで学ぶなど、幅広い年代層を受け入れていた。
年齢による一斉入学、一斉進級ではなく、それぞれの時期については決まりはなかったし、地域や学校によっても異なっていた。
寺子屋への入学は家の慶事とされていて、気候の良い春さきの入学が多かった。
進級も個人の能力に合わせて進級する仕組みだった。
寺子屋が市街にあったにもかかわらず、かつて寺が山中にあったことから、入学することを「登山」といい、卒業することを「下山」といった。
寺子屋の仕組み
1校あたりの生徒数は10〜100人と様々で、明治初年の調査によると寺子屋の師匠の大半は江戸の町民でした。その多くは男性でしたが、都市部の江戸においては女性の師匠もいたようです。
寺子の一人ひとりの親の職業や本人の希望を考えて、それぞれの寺子にあったカリキュラムを作る個別教育をしていました。
寺子屋の教育
寺子屋では、読み・書き・そろばんに加えて、教訓、社会、消息、地理、歴史、礼儀作法、実業などを教えていて、女子には裁縫や生花も教えられた。
なかでも素晴らしいのは、徳を重んじ育成が大切にされた。
孝行、正直、心のもちかたをはじめとする道徳を教え、敬語の正しい使いかたと言葉づかい、学ぶ時の姿勢や食事のとり方をはじめとする礼儀作法を躾けることに力が注がれた。
「三つの心、六つ躾、九つ言葉、十二文(ふみ)、十五理(ことわり)で末(すえ)決まる」といわれ、礼節こそが、社会のしっかりとした縦糸をつくっていた。
ここでいう縦糸とは、教育における縦糸のことで教師と子どもの関係づくりで、横糸とは子ども同士の関係づくりを指しています。
それぞれの振る舞いには心が宿っていなければならなかった。子供の心を作ることに重視されていたのです。
寺子屋は「儒学伝習所」とも呼ばれたが、看板には「幼童訓練所」「訓蒙(くんもう)所」「手習所」が掲げられていた。
幕府や諸藩は配下の武士に対して、儒学(じゅがく)の知識と教養を身につけさせることによって、士農工商という身分的秩序を維持しようとしました。
18世紀以降の藩政改革で人生育成重点にほとんどの藩に藩校が設置され、「論語」や「大学」などの四書五経(ししょごきょう)と呼ばれる儒学が教科書として使用された。
江戸時代から日本の識字率は世界的に高水準であったとともに、就学率は70〜80%といわれていて、イギリスでは20〜25%、フランスで1.4%、などいかに日本の就学率が高かったかがわかります。
寺子屋では道徳教育を行うのにあたり、「童子教」や「実語教」が往来物(家庭などで使われた学習書)が使われ、いずれも子供たちに因果の道理を教えた。
また、歌かるたや「百人一首」も広く使われ、さらに偉人伝、聖人、賢人などさまざまな美談についても教えられた。
現代のようにテレビやパソコンのない時代ですから、子供たちは耳を立てて聞いていたのでしょう。
少しでも、この頃の心を宿らせた学びを本教科とともに徳の意識を持ってもらいたいものです。
ユネスコ世界寺子屋運動
現在、様々な理由により教育を受けるチャンスの無かった成人や子どもたちに教育のチャンスを提供することを目的としている、寺子屋を世界中に普及させる運動が、公益社団法人日本ユネスコ協会連盟により主催されている。
世界識字教育運動の1つであるユネスコ世界寺子屋運動(World Terakoya Movement)です。
参考:徳の国富論(加瀬英明著)、Wikipedia、東京都立図書館