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江戸墨田川の粋な屋形船

屋形船の始まり

江戸の初期に始まったという屋形船。

和船のひとつで、船上で宴会や食事をして楽しむ、屋根と座敷が備えられた船のこと。
楼船ろうせんともいう。

引用:Wikipedia

主に夏に隅田川を彩り風物詩となっている。

隅田川の屋形船

「昔々物語」(1732年成立)

底の平たい「平田船」に屋根を造りかけ納涼船として、川に繰り出したのが始まりとのこと。

この屋形船遊びは、年とともに盛んになっていきます。

屋形船の大きさもビッグになっていきまず、大船として建造された最初の屋形船が東国丸(とうごくまる)。

この東国丸より大きく屋形を八間(やま)に仕切ったのが山一丸(やまいちまる)。

さらに屋形を九間(くま)に仕切ったのが熊一丸(くまいちまる)というように、次々に大きな船が登場していきました。

屋形船の歴史

屋形船は平安時代からその原形はあり貴族の遊びなどに使用されていた。

河川整備が進んだ江戸時代に栄え、大名や豪商などに愛用された。

特に江戸・隅田川の屋形船は金銀漆の装飾で飾り超豪華であった。

延宝年間(1680年頃)までが全盛期だった。

屋形船

そんな屋形船の浮かぶさまを眺めては「年の齢(よわい)二八(にはち)ばかりの女 十二、三人」が、「地紅(じくれない)、紅粉鬱金(べにうこん)」など思い思いのあでやかな衣をまとっていた。

鼓太鼓や琴、三味線ではやしつつ、当時流行していた伊勢踊りや花火に興ずるさまがみてとれた。

二八とは、2×8=16歳くらいという意味

これらの武家たちや裕福な町人の屋形船のほか、踊り見物に出る船月見船また、酒やら餅やら冷水、冷やし瓜などを売る船も出て大賑わいだった。

幕府の見方は、このような川遊びの盛り上がりを勝手気ままな社会悪とみたのか、天和2年(1682年)の大船建造の禁という規制をかけた。

船の長さを四間三尺(約8.2m)に制限し、次いで、屋形船の数を百艘にしてしまいます。

ただし、大名・旗本の船は制限の対象外。

いつの世も無粋なことをするもんですね。

この規制で隅田川の舟遊びが衰退に向かったのかと思いきや、おっとどっこい、そこは江戸の粋なとこで、そんなことはサラサラありません。

より小型の屋形船が爆発的に増え、当地の夕涼み文化を支えた

これは、猪牙船(ちょきぶね)ぐらいの小船によしず張り程度の簡単な屋根をつけたもので「日除船・ひよけぶ)とも呼ばれた。

この 猪牙船(ちょきぶね)というのは舳先(へさき)が猪の牙のようにとがっているところから名付けられた。

猪牙船

猪牙船は吉原遊郭を目当てとする山谷通いの客が用いたことで、つとに有名です。

船遊びの時期は毎年5月28日の両国川開きに始まり、8が28日の川仕舞いまで、川面には連日たくさんの船が出て展開されてました。

人々はというと夕涼みと飲食、歌舞音曲、そしてはなびに興じてました

このような涼み船のほか、新内節(しんないぶし)、清元節(きよもとぶし)などの音曲(おんぎょく)の流し船や料理などの商い船で賑わいました。

この商い船は、「うろうろ船」といい元は「売る船」といったのを遊び船の間をうろうろと彷徨うのでうろうろ船になったとか。

主に鮨、てんぷら、田楽、果物などを売り歩いたそうです。

現代の屋形船

昔の小型船とは違い現代では、全長が20メートル前後、定員は15~100名程度

操船室、調理場の空間を除いて、大半が客用空間となっている。

昨今はコロナ禍の影響で、すっかり姿を見ることができせんが、再び江戸の粋を体験できる時をこころ待ちにしたいものです。

参考:Wikipedia、浅草寺冊子(浅草寺教化部・発行)

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