最恐の「日本三大怨霊」菅原道真
「これは、偶然なのか」と信じられないような事故や災害といった不吉なことが、なんのタイミングなのか起こることがある。
そんなときに良くとりざたされる、「たたり」や「呪い」のような超自然現象です。
「そんなことありやしない」「迷信にきまってらぁ」と思いつつ納得のいかない、説明ができない奇妙な出来事に遭遇したという話は枚挙にいとまがありません。
“愛と憎しみは隣り合わせ”とよく言われていますが、“愛と呪い”も近しいらしい。
“呪霊”はこの人間界、至るところに存在していて「日本三大呪霊」があり、やがて彼らは「日本三大怨霊」と呼ばれ、日本の歴史の中で伝説として語り継がれるようになりました。
- 菅原道真(すがわらのみちざね)
- 平将門(たいらのまさかど)
- 崇徳天皇(すとくてんのう)
の3人です。いずれも政争や戦いに敗れて悲運の死を遂げ、その後に起こった関係者の死や怪異、疫病、災害などは彼らのたたりによるものとして恐れられたのです。
日本三大怨霊は、物語や古典芸能の題材としても扱われ、その存在が多くの人々に知られてきました。
日本三大怨霊は、鎮魂のために神として祀られましたが、次第にその強い霊力は人々に現在でも不思議な現象を引き起こすと言われています。
今回は菅原道真です。
怨霊
怨霊とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。 悪霊に分類される。
引用:Wikipedia
怨霊の中には、この世に未練を残し凄惨な死を遂げた死者の魂である「死霊」だけでなく、思いが強すぎるために生きた人間の魂が「生霊」として存在する場合もあります。
怨霊は、日本でも古くから人々を恐怖に陥れてきた存在として語り継がれており、特に恨みや憎しみが強ければ強いほど恐ろしい悪霊へと変貌し、強力な祟りや災いをもたらすと信じられていました。
菅原道真 (すがわらのみちざね)
道真は幼少より学問や詩歌の才能を発揮し、11歳で初めて漢詩を詠んだ。
「神童」と呼ばれ、学者、漢詩人、政治家と多彩な才能を持ち、天皇からの信頼も厚く、遣唐使の廃止を進言したことでも知られています。
やがて道真は朝廷の最高職とも言われる右大臣に就任し、藤原氏と並ぶ権力の絶頂期を迎えた。
しかし、そんな菅原道真の出世を快く思わない人も多く、中でも一人の権力者である左大臣・藤原時平は当時の天皇、醍醐天皇に「菅原道真は醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」と無実の罪をきせられ、左遷され大宰府に送られてしまいます。
左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられ、囚人同様の扱いで太宰府に幽閉された菅原道真は、失意のうちにわずか2年で非業の死を遂げました。延喜8年(908年)享年59歳。
さあ、これからです
- 権力を握った藤原時平ですが、39歳の若さで急死しました。延喜9年(909年)
- 右大臣の源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。延喜13年(913年)
- 醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。延喜23年(923年)
- 宮廷内で落雷が発生(清涼殿落雷事件)して、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た。延長8年(930年)
- 醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。延長8年(930年)
これらの一連の出来事は、菅原道真の怨霊による祟りであると恐れられ、死後にも関わらず太政大臣や左大臣の位を与えて怒りを収めようとしました。
しかしそれでも災いが止まることはなかったため、最終的には菅原道真の魂を神として祀るべく、北野天満宮が建立されることとなります。
菅原道真は落雷をもたらしたことから雷神として崇められ、「天神様」と呼ばれるようになりました。
生前学問の才能に秀でた菅原道真にあやかろうと、「学問の神様」として崇められるようになったのです。
飛梅伝説
菅原道真が太宰府に赴く時に庭の梅の木に読まれた有名な和歌
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
引用:太宰府天満宮
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
その梅が、京の都から太宰府の道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」がある。
「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ」