人柄はその一言にあらわれる「和顔愛語」
伝える手段
文字のなかったころ、人から人へ思いを伝える手段は口から発する言葉だけだった。
その言葉は音波となって相手の耳に届き、届き終わると消滅してしまう。
途中で聞きづらくても待ってはくれない。記憶しておくことができないから、その言葉を聞き逃すと、二度と聞くことは不可能だ
2600年前のお釈迦様が生きていたインドも文字の文化はなかった。
なのに経典は、約7000巻もあるのは、お釈迦様の教えを文字のない世界で何代も何代も師弟間の言葉のつなぎによって受け継がれてきたのです。
一言一句間違えないように真剣に語る師と、一言一句丸ごと記憶しようと雑念を捨て聞き入る弟子との緊迫した間合いの中で伝えられてきたのです。
現代では想像もつかないほどの真剣さがなければ成立しない知力の結晶です。
今を考えてみればわかるように、その場にいなくても映像も音も記録する事ができ、その記録した物を保存する事ができる。さらに、聞きたい時に欲しい情報を選んで何度でも繰り返し学習ができる。
なので、気が楽でいつでも「学び」ができることは、日々の楽しい娯楽ともいえる。
しかし、そこには文字文化のない時のような「聞き逃したら」二度と取り戻す事ができないという「最初で最後だ」という緊迫感はない。
尊敬している人から得る一回限りの言葉を「宝物」として大切に胸の中に抱え、何度も何度も繰り返し、その意味が体にしみこむまで理解をする。ということがないのです。
現代の情報は、無限に調べることができるが、どんなに多量の情報が溢れようとしても、その情報を自分自身が強い吸収力を持っていなければ、それを有効に活用することはできない。
どんな社会においても、最後に情報の価値を見出せるのは自分自身の真剣さだという事がわかるのだ。
「お釈迦様がきておられる」と聞いて、数日かけてテクテクと歩いて会いに行き、そこで、聴く耳に全霊を注ぎ、一度きりのありがたい教えを一生かけて考え抜く。
そうして毎日を過ごした当時の人たちからすれば、言葉をポイポイ使い捨てする現代の社会は「智慧を磨くのが難しい、たいへんな時代だなあ」と思っているかもしれませんね。
和顔愛語
仏教の言葉に「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉があります。
「和顔」はやわらかな顔、「愛語」はやさしい言葉。つまり、文字通り、笑顔で愛情のこもった言葉で話すことです。
これは、「無量寿経」という経典に出てくる言葉で、穏やかな顔で人に接し、思いやりのある言葉で人に話しかけなさい。という事を教えています。
「愛語」は、親愛の言葉で、慈愛に満ちた言葉ということです。
仏教は「言葉の暴力性」を徹底的にきらった。
- 嘘ばかりついていると、しだいに嘘と真実の境がわからなくなって、自分に都合のよい虚偽の世界で生きる利己的な人間になってしまう。
- 怒りにまかせた荒々しい言葉で人を怒鳴りつけてばかりいると、人の情愛を推し量る感受性が摩耗してきて、たおやかさがなくなり、野蛮なけだものへと近づいていく。
それは、「優れた自己の完成を目指す」という仏教の道に外れることになる。だからこそ、言葉の暴力を嫌うのです。
相手の気持ちをくみ取りながら、身内をいとおしいと思う気持ちと同じように愛情を持ち、優しく思いやりのある言葉で話しかけましょう。
参考:日々是修行(佐々木閑著)、ブッダの法則(田中治郎著)