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天才博物学者・南方熊楠とは

南方熊楠(みなかたくまぐす)

1867年(慶應3年)4月15日~1941年(昭和16年)12月29日
それはそれは、「知の巨人」と呼ばれるほど研究に人生をかけた天才です。

日本の博物学者であり、生物学者、民俗学者の顔も持っています。

いくつもの肩書からも察するように、興味を持った分野には、とことん追求し徹底的に調べる性格を持っていたからだといわれてます。

南方熊楠

交流のあった民俗学者の柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称されたが、これまた、たいへんな奇人としても見られていた

南方熊楠は1867年に現在の和歌山県和歌山市で生まれました。

熊楠は小さな頃から、人並みはずれて自然界に対し好奇心が旺盛で、異的な記憶力を持った神童でした。

生まれつきの優れた才能は、小学校時代も目立ち、友人の家に遊びに行き、そこのある江戸時代の百科辞典「和漢三才図会」を読み、暗記して家に戻り、半紙を綴じた帳に書いた。図も暗記していて書いた。
南方熊楠は、とうとう3年かけて百五冊のその百科事典を写してしまったのです。

また、当時の国語辞典である『節用集』、実用事典『大雑書』や絵入り百科事典である『訓蒙図彙』等を筆写し自習した。
それだけでなく、、中国の植物学の辞典「本草綱目」の五十二巻も写した

本草綱目

古本屋から借りた「太平記」五十冊も、「諸国名所図会」なども写してしまった。
これらは、あまりにも有名な逸話です。

熊楠自身の言葉があります
「書籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町も走りありき借覧し、ことごとく記憶し帰り、反古紙に写しだし、繰り返し読みたり」

引用:「履歴書」

1883年(明治16)3月、和歌山中学を卒業して上京し、神田の共立学校で勉強したのち、翌年、大学予備門(現東京大学)を受験して合格、入学した。同期生には、正岡子規、夏目漱石、山田美妙(びみょう)らがいた。

しかし、勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつけました。
このころ、世界的な隠花植物学者イギリスのバ-クレイや、アメリカのカーチスという植物学者が菌類(キノコ・粘菌など)を6000点集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。

大学を中退し、アメリカ留学を決意します。アメリカ、そしてイギリスへと渡り、のべ14年におよぶ遊学生活を送りました。
20歳から海外へ渡ったため語学も堪能で、英語はもちろん、フランス語やドイツ語、ラテン語なども専門書を読み込めるほど理解していました。

南方熊楠は海外でも既に学者として広く知られていましたが、日本に帰国後も様々な研究を続けました。

帰国後の南方

南方は、花を咲かせない隠花植物の研究に生涯を注ぎました。

特にキノコや粘菌、藻類を主に研究し、採集に明け暮れ、30年にもわたって研究に没頭した結果、南方は3500枚もの菌類図譜を残しました。

粘菌の標本は約7000点現存しており、1929年には生物学研究者であった昭和天皇へご進講(粘菌標本110種類)という栄誉に結び付いていきます。

南方熊楠が昭和天皇へ初めて変形菌標本を進献した

エコロジー」という言葉で生態系の大切さを訴えた南方は、エコロジストの始まりとも言われています。

世界で最も権威のある総合学術雑誌として有名な「ネイチャー」に「東洋の星座」という初めての論文が1893年に掲載され世界の学術界で有名になりました

その後も、論文を発表し続け、掲載された論文は51本に及び、これは単独の研究者としては歴代最高記録であり、いまだにこの記録を破る人は現れていません。

また、新種の粘菌の発見も、南方熊楠を有名にさせたきっかけを作りました。柿の木から新種の粘菌・ミナカテラ・ロンギンフィラを発見したのです。

この出来事は、分類学上の新しい「属」を発見したとして菌類を研究している世界中の学者たちに大きな影響を与えたと言われています。

10数ヶ国語を自由に使いこなし、国内外に多くの論文を発表し、日本に「ミナカタ」ありと世界の学者を振り向かせ、多くの足跡をのこしています

南方熊楠記念館

南方熊楠記念館

南方熊楠の遺した偉大な業績と遺徳をしのびその文献、標本類、遭品等を永久保存し、一般に公開するとともに博物学の巨星を後世に伝え、学術振興と文化の進展を目的として昭和40年4月に南方熊楠記念館を開館しました。

生涯研究を続けた南方が遺した足跡は膨大な量で、いまだ解明されていないものも多いと言われています。
南方熊楠記念館では、そんな彼の資料の一部である標本や文献などを保存し、一般公開しています。

参考:This is media南方熊楠記念館Wikipedia

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