論理ではないのです「駄目なものは駄目」
「物理的に無理です」とは、よく聞くこ言葉ですね。
一応辞書で調べてみると
社会科学や倫理学的な話を一切無視してやっても実行するのが無理と言うことで、物理学的な観点から無理と言うよりニュアンスとしては「理論上不可能」という言葉に近い。
引用:ニコニコ大百科
物理的は、辞書でも出てくるように、 一般に、空間・時間・重量など、数量に置き換えられる条件に関連するさま。
という意味なので、実際の数値を考えあわせて、できる、できないを判断するということになります。
しかし、よく耳にしますね「それは、物理的に無理だよ」とかいいますね。
「明日中に間に合わせてくれ」と言われても「部材が揃わないので、物理的に無理」ですと使いますね。
大阪から東京まで1時間で来いとか無理ですね。
5時間かかる仕事を2時間で終わらせて納品しろとか無理ですね。
論理的
物理的の対義語に論理的があります。
物理的の意味は、広さ(空間)・時間・重量など、物事を数量化できる面で捉えることです。
このことは、今ある条件を具体的に認識することでもあります。
これに対し、論理的とは、いまある条件のに捉われず、現状においてないものであったとしてもそれがあると仮定して筋道を立てることです。
物理的は今ある条件に捉われる形をとり。論理的は今ある条件に捉われないことで違いがはっきりします。
例えば、1個を約1時間で仕上がる仕事を10個を1時間で仕上げることはひとりでは、無理ですね。
一人で作業すると単純に10時間かかってしまいます。
しかしその作業を総勢10人で作業すれば、1時間で終わらせることができます。
というように、いまある条件(時間、人員)に対処して物理的に不可能なことも、いまある条件に捉われないで、考えれば論理的に可能になるということです。
その論理は、説明ができない論理がある、それは、論理的には説明できないが、非常に重要なことが山ほどあるということです。
数学は、昔から学者たちが口をそろえて、「こと数学に限れば、どんな命題でも正しいか誤りかのどちらか一つであり、どちらかであるかはいつか判定できる」。と信じきっていました。
ところが、1931年にオーストリアの数学者クルト・ゲーデルが「不完全性定理」というものを証明しました。
不完全性定理とは、簡単にいうと、どんなに立派な公理系があっても、その中に、正しいか正しくないかを論理的に判定できない命題が存在する、ということです。
公理系とは
その他の命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定のこと。
人間の頭が悪いから判定できないのではなく、論理だけに頼っていては永久に判定できないのです。
一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系 (axiomatic system) という。引用:Wikipedia
いままで、完全無欠と思われていた数学でもあるということをゲーデルが証明してしまった。
論理的に説明できない例として
- 「なんで、人を殺してはいけないの」
- 野に咲くスミレは美しいのは
- モーツァルトの曲はこんなに美しいのか
などなど、とても論理では説明ができない、「駄目なものは駄目」ということに尽きます。
論理なんてないのです。
この重要なことを子供の頃から教えることで、子供たちが何かの基準として動きがとれるようになります。
論理はとても大事な考え方ですが、一方、論理だけでは説明のつかないことが世の中にはたくさんあることを子供たちに教えていきましょう。人を大事にする世の中にするために。
参考:Wikipedia、国家の品格(藤原正彦著)