食う寝る座る「永平寺」修行記-上山編
普通のサラリーマンが出家して、曹洞宗の本山永平寺に上山し修行した。
前回は、出家を決心してから上山する日までの心の葛藤でした。
まだ読まれてない方は、こちらからお読みください。
この坂を登り切ると、地蔵院。僕の人生の何かが変わる。
浮かんでは消えてゆく、両親や友人の懐かしい顔に「ありがとう」「さよなら」を告げ、いよいよ坂を登り始めた。
あらかじめ指示されていた通り、戸口の脇の木版(もつばん)を力いっぱい三打した。
打つたびに硬く乾いた音が体の芯に響く。
地蔵院は永平寺の「塔頭・たっちゅう」(大寺に所属する子院)の一つで、上山を志願した者がその前日一宿し、上山するにあたり点検や指示を受けるところで、いわば、娑婆と仏界との境界線の一歩手前に建っていることになる。
地蔵院の正面に進むと先に到着している二人が黙って地に目を伏せたまま立ち尽くしている。
これから何がどう始まろうとしているのか、皆目見当がつかない。二人に習って地蔵院に向かって立った。
さらに木版が打ちならされ、合計八人の顔ぶれがそろった。
皆、行方の見えない不安を隠しきれない表情で静かに口を一文字に結んだ。
と突然、重く閉じられていた戸が開いた。
そこには、世の中の不満を一手に引き受け、背負っているといった苦々しい顔した雲水だった。
その雲水の発するドスのきいた声に従って、各自名乗りを上げた。
全身に分散されている力を全て一ヶ所に集め、あらん限りの大声で叫んだ。
「聞こえねー」即ざに怒鳴り返される。
「そんな声しか出ねえようなやつは修行などできんぞ!」
「お前みたいなやつは、とっとと帰れ!」
もちろん聞こえているのだが、こう言った不合理なやりとりを交わし、まず上山する者の願心の程を試している。
みんな何度も何度も身体中の血が逆流し、喉から飛び散る思い出声をはり上げた。
この怒鳴り合いで許しを得たものは草鞋(わらじ)をぬぎ、重い戸の中に入れる。
一人二人と入って行ったが自分一人だけ取り残され、許されたのは山全体が黒く沈みかけて頃だった。
こじんまりとした本堂の中に入り、名前を書き込むのだが、書き込めば今までの社会ととのつながりが完全に断ち切れる。それを切望していたことではあったが、紙に墨がしみこむまでの刹那、掌の中の筆が小さく震えた。
次の指示があるまで正座して待つようにと言い、姿を消した。
時間は流れていたはず。しかし、ただただ足の痛みがじりじりと責められ、畳は石のように硬くなり、足は次第に痛み以外の感覚を全て失った。
突然、天井の電灯がともった。先ほどの雲水が現れ手際よく指示がおこなわれ食事になった。
朱の器に入った一汁一菜で、大きな器に御飯、2番目の器に味噌汁一番小さな器に野菜の煮物が少しだけおさまっている。最後に沢庵の入った器がまわされ、各自数きれ取りいただきます。
係の雲水は簡単な説明をし、戒尺(かいしゃく)と呼ばれる拍子木に合わせ、「五観之偈」なるものを一緒に唱えるようにと指示し、おもむろに戒尺を打った。
すると、みんな声を揃えて唱え始め、その「五観之偈」を知らないのが自分だけであることに唖然とした。
食事が終わると荷物の点検が始まった。持参品は上山する前に通知で詳しく指定されていた。
- 袈裟行李(けさごうり)定められた物をおさめた
- 後附行李(あとづけごうり)定められた物を収めた
- 坐蒲(ざふ)
袈裟行李の中 - 袈裟
- 血脈(けちみやく)
- 龍天善神軸(りゅうてんぜんじんじく)
- 「正法眼蔵」
- 上山許可状
- 印鑑
- 保険証
- 応量器・一式
- 涅槃金千円(修行中に自分の命がこと切れた時に弔いをしてもらうため)
後附行李の中 - 洗面用具(歯ブラシ・歯磨き粉)
- 浄髪用具(安全剃刀)
- 襪子(べつす)足袋の一種
- 足袋
- 裁縫用具
で、定められた包み方で包んで持参することになっている。
指定されていた以外の持ち物全て取り上げられる。
現金や財布、腕時計、常備薬など各自の名前の書かれたビニール袋に入れられる。
点検が終わると今度は解いた行李を元通りに包みなおさせられた。
二つの行李は数枚の鈍色(にびいろ)の綿布で包まれていて、単なる行李ではなく、洗面手巾や服紗、膝掛けに布巾といった、修行生活の折々に使用される布なのです。
行李は、それらの布で、一種儀礼的形式にのとって複雑かつ美的に包まれる。
みな包み終わったかなと見たら、まだまったく包めていない者がいた。
「おい、どうして包めねえんだ。お前は大切な小売を自分で包んでこなかったのか。何を考えてたんだ!」
と怒鳴るが早いか、雲水がその彼におもいっきり平手打ちをくらわし、その参列な音に驚き一斉にみんなの視線が集まった。
彼は、あまりの突然の出来事に目を見開き絶句したままブルブルと震えている。
そこにいる誰もが狼狽し、今までの目の前に広がっていた尋常を装った光景が、一瞬に引き裂かれた。
恐ろしく暗い闇の実態を見てしまったのだ。とんでもないところに足を踏み入れてしまった。
今回はここまで。
普段の世の中にはない光景が繰り広げようとしている。
しかし、そこまでして修行を重ねることの意味はなんだろう。いや意味などいらないと思う。ただやる。ただ教わる。そこから生ずるものが意味あることなのではないでしょうか。
著者の言葉をなるべく逸らさないようにしてます。
あなたに少しでも日本の何かをわかってもらいたいんです。
まだまだ続きます。
参考:食う寝る坐る永平寺修記(野々村馨著)