限られた時間の「急がない」活かしかた
友達との話の中や、何かの話題の中で「もし、あと1週間の命と言われたら何をしますか」どうしますかと聞かれたことはありませんか。
これ、意外と答えられないのではないでしょうか。
本当にやりたいこと
- 本当にやりたいことをやりたい。
- 会いたい人に会いたい。
- 親しい友や知人と酒を心ゆくまで飲みたい。
- 行ってみたいところに行きたい。
- みんなと一緒に話をとことんしたい。
- などなど・・・・・
たくさん思い浮かべるでしょうが、人によって違いがあるけど真剣に何を思うかです。
大学教授の説明
人の一生をバケツに見立て、学生たちに説明した大学教授がいました。
「ここにあるバケツにゴルフボールを目いっぱい入れてみる」と言ってバケツに入るだけのゴルボールを入れました。
「このバケツにこれ以上入ると思いますか?」と学生に質問して、「もう入りません」と答えると、教授は用意していた砂利をバケツにいれました。
砂利はゴルフボールの隙間からバケツの中に入り込みました。
「これでいっぱいかな?」
すると教授は今度は細かい砂をバケツに入れると、砂利との間に砂が入っていきました。
「これで、さすがにいっぱいだと思うだろう?」と教授はニコッとしながら、カップに入ったコーヒーをバケツの中に注ぎ、コーヒーは砂の中に沁みこんでいきました。引用:ほとけさまと心が温まるお話(岡本一志著)
話し終えた教授は学生に向かって言いました。
「諸君、これは君たちの人生をたとえている」
- このバケツとは、一人ひとりに与えられた時間だ。一生の時間は実に限られている。
- 次にこのゴルフボールとは、家族や友人、健康、生きがいと言った幸せに欠かせないもの。
- 次の砂利とは住まいや仕事、財産などの生きる上で欠かせない手段のことです。
- 最後の砂とは、日常のささいな小さなことだ。
もし、最初に砂でバケツをいっぱいにしたらどうなるだろう?
ゴルフボールや砂利は入らなくなるだろう。
だから、大切なことは大事なものから入れていくことなのです。と教授は説明を加えたのです。
たしかに、人生はその人に与えられた時間です。一生という限られた時間に何をするかで豊かにもなり、幸せにもなりえるのです。
お釈迦様の言葉に
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
(死をまじめに見つめることが本当の幸せへの第一歩である)
があります。
この1週間の間で、「1週間後の夜を迎えても満足だったと思えること」が仏教では、それこそが人生の目的といえると説いています。
この目的を果たすための1週間だったと感謝できることです。
1週間の命はとなったら、忙しいと動きまわっていることがどうでもよくなってしまうのでしょう。
時には目を閉じて、吸う息、吐く息の呼吸に意識をすると静かな心になります。
騒々しい世の中を離れ、自分を振り返るひとときが生まれてきます。
学生が、教授に質問をしました。
「ところで、バケツに最後に入れたコーヒーは一体、何をたとえているのですか」
教授はニッコリ笑って
「このコーヒーは、どんなに忙しくても、ほっと一息、コーヒーを飲む時間は作れるものだということだよ。どんなときでも、一息つくゆとりと心がけを忘れてはならない」と説明した。
忙しいという字は、心を亡くすと書くように、自分を見つめ、振り返る余裕をなくしていることですが、そんな状態のときでも、ほっと、一息つく時間を取っていきましょう。
参考:ほとけさまと心が温まるお話(岡本一志著)