力士が一喜一憂する番付とは
大相撲が開催される前に友達から番付表をもらいます。
ご存知のように、力士が気にする力士の順位表のことです。
相撲界は、真の実力によってランク付けされる厳しい世界です。
番付表
番付は正式には「番付表」といって、力士だけではなく行司や年寄りの地位と名を一枚の紙に書いたものです。
「番付が上がる」「番付が下がる」などという言い方で、お相撲さんの地位を表す言葉として使われます。
また、番付ということが派生して、さまざまなものの順位付けの意味で「芝居番付」「長者番付」などと用いられる。
この形式は、園芸植物の品種や各地の名所、温泉、三味線奏家、遊女、落語、講談、歌舞伎役者などのあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。
このように相撲以外のさまざまなものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれている。
この力士たちが一喜一憂する番付は江戸時代の元禄年間(1688年〜1704年)にはあったといわれ、現代では若者頭や世話人、呼出の名も書き込まれています。
番付表の構成
番付表は、上から下へ五つの段で組まれています。
最上段は当然のことで、東西の横綱で大きな字名が踊っています。
そして大関、関脇、小結、前頭の幕内力士になります。
最下段には序ノ口力士の名が書かれていますが、とても小さく細くて虫眼鏡をかざさなければ読めません。
そして向かって右の力士が東方になり、左の力士が西方になります。
これは、「天子、北を背にして南に面す」の故事から天皇は南を向いて座っていた。
したがって、東を左、西を右としていた。日本の神話では左が「陽」で右が「陰」の性質という。
太陽は東から昇り西に沈むので太陽が昇る東を重んじていたようです。
この座り方は中国から来たといわれ、北の北極星が世界の中心で不動の存在としていたことに由来する。
そのため天皇から見て左が優位になり、左大臣と右大臣を見た場合左大臣が格上とされていた。
確認できる相撲史(江戸時代)の番付によると力士を出身地別に分け、近江国(滋賀県)以東を東方力士、以西を西方力士としていた。
現在は、前場所の番付と成績により東西に分けられる。格付け的には東が半枚上になるので、同じ格でも、西方にされた関取は「半枚に泣く」という。
そして東西に分ける中央の縦のスペースに太字で「蒙御免」と書かれてるのは、「ごめんこうむる」と読み寺社奉行から興行の許可を受けているという意味です。
現在の相撲協会では、警察、消防署等からの許可を得ています。
番付の文字は、独特の相撲字という書体で相撲字を書いているのは現役の行司です。
相撲字を書くのも行事の大事な役目で、入門すると先輩から徹底して相撲字の書き方を仕込まれます。
番付を書くコツは、紙に白い部分を残さず、埋めるように描き広げることだそうで、これは客席に空きのない状態にし、満員御礼の大入りにちなんだ縁起担ぎといわれています。
実際に書く番付は行事がケント紙に書いた元書きを四分の一ほどに縮小印刷されたものです。
番付編成会議
初日から千秋楽までの力士の勝負を記録したものを「巻き」といってそれを見ながら、番付編成会議にかけて番付原稿を作成します。これも行事の役目で10日間かかります。
番付表は熟練した行事が書きますが、助手を一人つけて書き上がるまでは結構日数がかかります。
前相撲
相撲部屋に入門するとまず与えられるのが「前相撲」という地位です。
番付に名が記載されていないので「番付外」とも呼ばれ、番付外の力士同士が本場所中に行う取り組みのことです。
前相撲に出場した新弟子はその翌場所にやっと結果に応じた順番で番付最下段「序ノ口」に名が載ります。そして、序ノ口から序二段、三段目、幕下・・・へとお番付に大きな文字が躍るように頑張るわけです。
番付は生きもの
他力士の成績や昇進・降格幅に大きく左右されるため、同地位・同成績でありながら翌場所の番付に大差がつくこともある。
そんな番付を表す言葉に「番付は生きもの」とあり、各階級ごとの定員が決まっていることで運・不運も大いに影響するのですね。
力士の気持ちになって番付表を見ると、また違う感情を持ちますよ。
参考:Wikipedia、力士の世界(33代 木村庄之助著)