自業自得・因果応報の大事
自業自得と因果応報
どちらも仏教の言葉で、自業自得の「業」はカルマ(行為)のことです。
「因果」とは、原因と結果ということです。
結果を引き起こす原因を「因」といい、因によって引き起こされたものを「果」という事になります。
ある行為やいろいろな事象が原因となって、ある結果を引き起こすこと「因果応報」といいます。
今の自分が行っている行為が結果として自分が受けることが「自業自得」といいます。
本来、良い行為は良い結果となって自分に返ってくる。
このことを「善因善果」(ぜんいんぜんか)という。
悪い行為は悪い結果となって返ってきます。
このことを「悪因悪果」(あくいんあっか)という。
善悪の両方を意味する言葉が「自業自得」でしたが、いつのまにか、悪い行いに対して悪い結果が自分に返ってくると言う事にしか使われなくなりました。
いずれにしても自分が行った行為に対して結果が自分に返ってきます。
このことを「自因自果」(じいんじか)という。
これが、前世、現世、來世の三世の考え方になります。
つまり仏教では、現在私たちがいることの状態は前世の行為が原因となって現れた結果であり、現在の自分の行う行為はそれが原因で来世で善悪、苦楽の結果となって現れます。これが「因果応報」の考え方です。
ですから、今を大事にして、善い行いを積めば来世でもよい結果を手にすることができるのです。
大事な縁
わたしたちは縁次第で、良くも悪くも結果を貰いますがよい縁、悪い縁とは何でしょう。
自分の調子が良い時や幸せな時は、自分の努力のおかげだと誰もが思います。
自分自身が不幸や災難にあった時には、自分の責任ではないと思ってしまうものです。
例えば
「子供の成績が悪いのは先生の教育が悪いからだ」
「遅刻をしてしまったのは、いつもより急に渋滞したからだ」
「売り上げが上がらないのは、世の中が不況だからだ」
など、自分の責任だとは思わないのです。
すべての「結果」は「因」と「縁」の条件が満たされたときに現れます。
因だけでは結果は生まれません。
縁だけでも結果は生まれません。
「因」は前述のように自分の行為のことです。
「縁」とは、自分以外のすべての要因、環境や条件のこと。
お米で因・縁・果をあらわすと
- 因:もみだね。
- 縁:空気、土壌、水、温度、栄養など
- 果:米
となります。
昔の言葉で「親の因果が子に報い・・・」とありますが
親の因果とは親の「業(行為)」を指しています。
この言葉は、親の行為が子供の報いになってしまったと言っていますが「自業自得の法則」から見ても、これは大きな間違いです。
いくら親子でも、親しい人でも、他人の行為が別の人に結果として返っていくことはないからです。
親が悪い行為をしたならば、その報いは親本人に必ず返っていきます。
もし、子供が悪い行いをしたならば、その結果は子供本人に返っていきます。
「こどもが反抗的に会話もしないのは、妻の教育がなっていないからだ」
これは、子供が会話をしないのは、父親となのだから父親と子供の関係の中で生じていることです。
自分を改めて見直して原因を突き止め、決して責任を転嫁しないようにすることが大事です。
最近は、自分のせいだはなく、会社や上司のせいだと考えてしまう「新型うつ病」傾向にあるようです。
仕事中の失敗も他人のせいにして、注意を受けると休んだりする新しい「うつ病」だそうです。
自分がおこなった行為の結果は必ず自分に結果出てその結果は自分で引き受けることが大事です。
「お天道様が見ているよ」という昔ながらの価値観を皆で持ちあわせて、「人事を尽くして、天命を待つ」という基本の姿勢を貫いていきましょう。
参考:ブッダの法則(田中治郎・奈良康明著)、終活ネット、仏さまが伝えたかったこと(岡本一志著)
仏教を学ぼう、無心ということ(鈴木大拙著)、ブッダ伝(中村元著)、日本思想全史(清水正之著)