しっかり目を開けて夢を見よう

禅宗で重要な深い言葉「面目」の意味は

普段使いで「イヤー面目ない」とわびることがあります。
この面目を使った慣用句は数多くありますね。

  • 面目まるつぶれ
  • 面目が立つ
  • 面目ねぇ
  • 面目をほどこす
  • 面目躍如
  • 面目を保つ

さて、「面目て何だろう」と聞かれると答えにとまどります。

” は人の顔の形をかたどった字で、顔のことです。
辞書にも、世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価
とあります。(引用:goo国語辞書)

また「日葡(にっぽ)辞典」によると

意味によって読みが異なり、名誉・体面の意味をあらわす場合は「めんぼく」と読み
顔の意味の場合は「めんもく」と読んで区別する。

なるほど、普段あまり意識しないでいるとわかりづらいですが、これではっきりしました。

この面目の語は、古くから仏教として使われていて、特に禅宗の用語としてあり、禅宗では思想的に重要用語のひとつであった。

面目は、姿かたちの中心であり、「顔のかなめ」で、顔の中で最重要の一つであることから、禅宗でもこの意味をさらに深く解釈して用いている。

禅宗においては、面目を「めんもく」と読み、骨髄とか真理、あるいは根本の真義などの意味にとっている。

禅語の中で「眼横鼻直(がんのうびちょく)」という有名な語がある。

顔の中で眼は横に並び、鼻は縦に真っ直ぐついている。生まれたときから、いや、ズーと以前からそうであって、人が何かを加えたものでなく、人の作為がなく、本来そうであったことに何の疑いもなく、不自由でもなく用いている。

このことは、一切の偽りもなく、まやかしもなく、たぶらかしもない。
これこそが、真理である。という。
これと同じことを面目と禅宗ではいう。

面目は自然のままにして、少しの人為を加えず、自己の本来のすがた、自己の如実のすがたということです。

また本来、迷いも、汚れもない、ありのままのすがたのことです。
父母未生以前の面目とはなにか」のように用いられ、自分を生んだ父母、その父母の父母、さらにまたその父母の父母とさかのぼり、突き詰めていったところの父母が生まれる前のもともとのすがたはなんだということで、端的にいえば ”絶対無差別”の自己をいう。

すなわち、どんな人にも本来そなわっている仏となる素質のことです。

日本における曹洞宗の開祖の道元禅師は、詠まれた歌に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」という一首があります。

この歌は、この世の全てのものは、本来純粋であるべきであり、作為されない、あるがままの真実なるいのちをそなえている。
この真実なるものは常に、偽りのない姿を現じているのであり、それが尊いのであるということであります。これを本来の面目ともいいます。

引用:道元禅師

道元禅師

人の顔を見て、その顔つき(面目)を論じ、花や月を見て、好悪の注文をつける。春は春の風趣、秋は秋の風情があるのに、人は好みで注文をつける。
つねに人は自己の「私」をそこにすえて物を見聞したり、取捨したり、、動揺したりする。
物にはすべて本来面目、眼横鼻直であるにもかかわらず、人間の側からものを曲折してみる。
実は、嫌だという色もなければ、行って染まりたい色もないのだとさとるなら、その時自然に智慧の道に行履(あんり:禅僧の日常一切の起居動作のこと)すべきものが現れてくる。

と道元禅師は教えています。

面目は、深い意味が込められた言葉ですね、少しでも理解できたら嬉しいです。

参考:仏教語源散策(中村元著)、耕雲寺

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