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世界が驚いた日本植物学の父「牧野富太郎」博士

牧野富太郎博士は、日本の植物分類学の基礎を築いた人で、2023年朝ドラのモデルとなり、一躍有名になりました。

牧野富太郎博士

まず、世界的な植物分類学者の牧野富太郎博士の言葉を紹介します。

私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います

と、ここまで言い切れる人はそうはいません。

そのぐらい、植物をこよなく愛していたのでしょう。

高知県で生まれる

幕末の文久2年(1862年)に高知県に生まれ、まだ物心がつかないうちに両親と祖父を亡くし、祖母の手ひとつで育てられました。
一人で草木と遊ぶことが好きな少年でした。
少年時代は、寺子屋や私塾で学び、その後は名教館に入学し最先端の諸学科を学びました。
学制がしかれた1874年に名教館は小学校になりそこでは2年で退学してます。

その時から牧野少年は周辺の山々にでかけては植物採集に励み、なんと独学で植物学を身につけました。
土佐の山野の現場に行き、その豊かさの中で実地に学んだことが原点になっています。

やがて植物学に没頭し、志高く東京大学理学部植物学教室へ出入りしながら本格的に植物研究に励みました。友人と「植物学雑誌」を創刊しています。

日本初の命名

1889年には、土佐で発見した新種の「ヤマトグサ」に日本で初めて学名を付け「植物学雑誌」に発表し、これが日本人が外国の学者に依存しないで自らの手で学名をつけることができた記念すべきことだったのです。

牧野富太郎記念館より

このことは日本の植物学に大きな足跡を残したのでした。

牧野博士は全国を踏査して廻り、約2500種の植物を発見し命名したのです。
この数は日本のシダ以上の高等植物の約半数になります。

日本全国をまわりながら、地域の植物愛好家を指導して植物学を大衆に広めていきました。

画才を併せ持つ

研究には記録しておく文章と植物の特徴をわかりやすく正確に表現して記録できる図が必要になります。

牧野博士はその鋭い観察力と精密な天性の画才を持ち、各植物を図に正確に忠実に写生したのです。

採取した植物の典型的な形のこだわり、代表的な形を吟味し、ルーペや顕微鏡を使い じっくりと観察しながら細部にわたり描いたのです。

その植物図をよく眺めると表面に細かな毛が描かれていたり、極細の線が描かれていて、鼠の毛3本と言われる穂先がきわめて細い蒔絵筆や面相筆で描かれています。

当時の絵の具では実際の色を表現できる物がなかったので、イギリス製の最高級品ウィンザーニュートンの絵の具を使用していました。

それで生涯に1700点もの写生を重ねながら技術力も磨き「牧野式」と言われる先進的な植物図法を確立したのです。

これは相当の観察力と写し取ろうとする根気が必要で牧野博士でなければなしえなかったのではないかと思います。

そして、とうとう植物誌をつくる大志は1888年に「日本植物誌図篇」を自主出版で刊行した。

さらに1900年には「大日本植物誌」を手がけ、日本の学術水準を世界に示した。

洗練された牧野式植物手法は海外からも高い評価を得たのです。

日本の植物学の父」「草木の精」「植物の愛人」など異名を持ち94歳まで植物を愛し続けた牧野博士は、その研究成果は50万点もの標本や観察記録、書籍や植物図鑑など多数あり、身近な植物はすべて研究対象だった。

これほど植物を愛した人はいないでしょう。

参考:和楽Wikipedia

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