世界遺産のマチュピチュと知られざる日本人の物語
世界遺産として有名なペルーの「マチュピチュ」(Machu Picchu)は、ペルーのアンデス山脈に位置する世界遺産の遺跡であり、古代インカ帝国の重要な遺産です。
空中都市マチュピチュ
15世紀に建設されたこの遺跡は、標高2430mの山の尾根にあり、周囲を山々に囲まれた美しい景観が特徴です。
誰でも一度は行ってみたいと世界中の人たちを魅了し、1983年(昭によって和58年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
その神秘的なマチュピチュは、山のふもとからは確認できず、誰によって何の目的で作られたのか、その理由がいまだに判明されていない謎だらけの「空中都市」です。
周辺地域はアンデス文明が発達していたが文字を持たないため、わからないことが多いようです。
伝説の日本人
そんなマチュピチュに「伝説の日本人」がいたとは夢にも思いませんでした。
その伝説の人は「野内与吉(のうち よきち)1895~1969年」と言い、福島県安達郡大玉村出身の彼は、裕福な農家に生まれるも海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡った。
サン・ニコラスの農園で働いたが、契約とはずいぶんと違う過酷な労働環境のために1年で仕事をやめてペルー国内を放浪した。
1923年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務し、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わった。
1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路が完成した。
これを機に与吉はマチュピチュに移住した。
与吉の功績
手先の器用だった与吉は、何もないマチュピチュ村に密林を開拓して川から水を引いて畑を作り、道路や畑を整備し集落をつくり、ダムをつくり水力発電を行い村に電気を通した。
村を住みやすくするため木を伐採していた際に、温泉が湧いたという証言もあり、村の発展のために労を惜しまず創意工夫を重ねた。
1935年には、村で初めての本格的大型木造建築「ホテル・ノウチ」を建て、1階部分を交番や郵便局として無償で貸与、後に2階部分も村長室や裁判所として村のために提供し、大いに人望を集めた。
このホテル・ノウチにマチュピチュの遺跡研究家などが宿泊し、このホテルを中心に村は発展していった。
与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地のガイドもしていた。
ますます村民から信望を集めた与吉は、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務めた。マチュピチュ村が正式に村になった41年には初代村長となったのです。
1958年に三笠宮殿下がペルーを訪れ、マチュピチュ遺跡を見学した際に、与吉の長女オルガ野内が三笠宮殿下に花束を贈呈した。
このニュースを日本の家族が知ることになり大使館を通じ連絡を取り、52年ぶりに帰京することができた。
半世紀ぶりの帰郷に「今世浦島(現代の浦島太郎)」と紹介されていた。
クスコに戻ってわずか2ヶ月後の1969年8月29日に息を引き取った。
日本とペルーの架け橋
2015年10月、マチュピチュ村は、野内の故郷である大玉村と、同村にとって初となる友好都市協定を締結している。
このようにマチュピチュ村の発展のために水や電気をもたらした与吉の功績物語はあまり知られていません。
孫の一人である日系三世の野内セサル良郎は、2014年、アンデスに関する講演会や勉強会などを企画する「日本マチュピチュ協会」を設立した。
さらに多くの方に祖父の存在やペルーの魅力を伝え、祖父の意思を受け継ぎ日本とペルーの架け橋となりたいと活動を続けている。
もし、マチュピチュ村に行く際には、この野内与吉の歴史を思い出しながら散策してみてください、どこかに日本の雰囲気を感じさせることがあるかもしれません。
参考:EBARA、東京大学総合研究博物館