仏教の教えのことばにある中道とは
仏教の教え中のことばの中道とは
仏教の経典はなんと5000冊以上あります。
何をするにも「努力」は大事ですね。
子供の頃から、親や学校でいわれてきました。
集中力を高めて、勉強もスポーツも趣味も一所懸命にすることで目的に近づきます。と、刷り込まれてきました。
頑張って、頑張って、何とかレギュラーをつかもうと野球やサッカー、バスケットなどのクラブに入り練習している人は多いです。
しかし、上達も人それぞれで確実に実力が上がる人なかなか実力が上がらない人がいます。
この努力というものは、この位やればよいとかいう事はなく、同じ努力をしていても、人それぞれに
違うものです。
仏教のお釈迦様のことば
仏教のお釈迦様のお弟子さんに「ソーナ」という僧侶がいました。
ソーナはお釈迦様のお弟子さんの中でも精進第一と言われるほどの、とてもまじめで修行に精を出していました。
しかし、いつまでたっても悟りが開けずに、こんなに頑張っているのに、自分にはダメなのか、見込みがないならば修行をやめてお釈迦様から去ろうかと悩んでしまいました。
お釈迦様はそんなソーナに努力が過ぎても「こんなに努力したのに」とそこに執着が生まれる。
逆に緩めすぎると今度は厄介な怠ける心が生まれてしまう。
琴の弦のように
- 弦をあまりも強く張っていても
- 反対に弦をゆるく張っていても
よい音は出ない。
弦の緩急をつけた、ちょうど良く張られているのがよい音色を出すのだ。
「中道(ちゅうどう)」を行きなさいと諭されました。
私たちは自分の今までやってきたことに対してたいへんな執着を持ってしまいます。
仕事でもプライベートな時でも、自分が何かに心から取り組んだら、そこそこの結果を求めるのが人間です。
その結果を求めるのに、準備をし何度も何度もそれに向かってやるべきことを積み重ねてきたが、結果が悪かった。
そんな時には、誰しも
「一所懸命やったのに今までの努力は何だったのだ」悪い結果が出たことで、自分がやった努力が、全くのムダだったと思ってしまいます。
努力は大事です。努力しなければ出来ないことはたくさんあります。
でも、努力だけにホーカスして、努力にこだわると「こんなにやったのに」とムダな努力ということに
なってしまいます。
- もっと褒められてもいいのに
- もっと認められてもいいのに
のように、いろいろな気持ちが出てきて返って苦しみます。
こういう時に大切な事は、結果をどう受け止めるか結果が出るまでの努力の工程がどうだったのかと線を結果までのプロセスの自分に向け、一所懸命努力した自分に注目すればよいのではないでしょうか。
ムダな努力はありません。
ムダに思うも思わないも、ただ、自分の心次第です。
努力しながら、努力していることにこだわらない。
自然体でありたいものですね。
「中道」というのは、右と左、上と下、有と無、などの両極端の真ん中に当たるものではない。
「二つの対立した極端にとらわれるな。さらに中(ちゅう)にも
とらわれるな」「本当に適切な、要点にピタッと当たるという
ことが必要である、と。
出典:東洋の心を語る・中道を歩む(仏教学者・東京大学名誉教授
中村元、仏教学者・駒澤大学名誉教授 奈良康明)
参考:ゆるすという禅の生き方(枡野俊明著)、NHK教育テレビ・「こころの時代」