多読よりも読むべき良書は【内容が大事】
読書と多読
突然ですが良書ってどんな本だと思いますか?
そしてあなたは月に、もしくは1年に何冊の本を読みますか?
「俺は月に30冊を読んでるよ!」向上心の高い人からは、よく聞く言葉ですね。
もしも、こんなこと言ったらすぐ質問が飛んできますね
- 僕:「僕は読書が趣味なんです」
- 相手:「どういう本が好きですか」ではなく
- 相手:「何冊読んでますか」
と聞かれます。こういう人は速読の趣味もあるのでしょうか。
何を読んでいるのではなく何冊読んでるのかを争っているようです。
ドイツの哲学者のショウペンハウエルはその著作「思索」の冒頭で
数の多さではない
数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。
いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。
引用:思索
と書かれている。
何とも背筋をピンとされ、うならされる文章です。
情報の氾濫と知識
現代のように情報が氾濫している世の中であればあるほど、自分で体験し、考えぬいた知識が重要です。
第一次情報とでもいうのでしょうか、第二次情報や第三次情報のように他人からのお仕着せの情報や掲載・保管された思想ではないということでしょう。
読書のこと
ショウペンハウエルは読書のことを
読書は、他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。
(中略)
さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。
すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
引用:読書について
ここでも、胸にずしりと来る内容です。
ただ本を受動的に読むのではなく、本の内容を自分に置き換えて熟慮することが大事だとされている。
また、こんなことも
多読は精神から弾力性をことごとく奪い取る。
柔らかな頭が硬くなると言ってるが、自分で考えることがいかに大切かを言っています。
読書の否定ではない
ショウペンハウエルは読書を否定しているのではなく、何をどう読むのかが重要だといってます。
そして、せっかく読むのであれば実のあるようにしたいので、意識すべきは量ではなく内容であり、それをじっくりと考える時間を確保する必要があります。
そこで、冒頭の質問に戻り、悪書ではない良書を読みなさいと彼は言っている。
良書は、誰でも知っていて、天才の作品ということでしょうか。
- 日本であれば
「源氏物語」紫式部、「こころ」夏目漱石 - 海外のもので
「論語」孔子、「ロミオとジュリエット」シェイクスピアなどでしょうか。
決して、ベストセラーではなく10年経っても色あせない本だということです。
大事なことは、とにもかくにも本を読んだ量を競うことは害があるということです。
読書は洗練された「名著」とだけ読むことで、その本が役に立つとかどうかなど考えずに、ただ、ひたすら読んだ後に深く考えることです
参考:無辺光、 FUTURE(北畑淳也著)