友達いない人は ほとんだと思う 弥勒菩薩の学び
友達いますか
自分で過去を振り返ると友達はいましたか
小学校に上がる前は近所の同年代の遊び友逹小学校に入っても近所の友達と一緒に学校へいき、家に帰ってからも毎日が冒険の連続でした。
また、家にいると「外で遊びなさい」と怒られました。
小学校3年生になると、ほとんどの男の子は野球を始めます。
なんといっても、ON、(王貞治、長嶋茂雄)の全盛期です。
自分も、毎日巨人の野球帽をかぶって野球に明け暮れました、
野球をやっていない子がいても、近所の友達は、全員と言ってよいほど知ってました。
ですから、小学生までは近所の仲良しといつも一緒にいた記憶が残っています。
中学生になってから、近所ではなくクラスで仲よくなったり、部活で仲良くなったりしました。
残念なことに、中学1年生の終わりの頃に家の引っ越しが2度あり、今までの友達とはそこで別れることになったのです。
新天地の中学では、部活には入らず町の空手道の道場にかよいました。
そこで同じ年の友達ができ輪も広がりましたが、発展的でもなくそこそこの付き合いでした。
さて、高校生になると趣味や性格、合う合わないと友達の感覚がずいぶんと変わりました
男子校で、少し不良っぽいのから音楽好きやスポーツ好き、女好きな奴とバラエティーに富んでました
それでも真の友達はいないもので、中学時代の一番の友は、寿司屋に住み込みで働くことになり地方に行ってしまった。
その頃、流行ったG・S(グループサウンズ)の真似をした仲間に誘われ、4人グループのメンバーにはいった。
自分は兄が買ったギターを中学から弾いていたのですぐにサイドギターはこなせた。
そんな毎日を過ごしていましたが、ほんとの友達は、なかなかできるものではないですね
父親の突然死で、大学に行かず就職をしましたが、先輩が殆どで同僚はいましたが、会社仲間の付合い程度でした。
あなたは、真の友とは何だろうと思ったことはありませんか?
「不請の友」とは
読んだ本の中にこんなことが書いてありました
お経に「不請の友・ふしょうのとも」ということばがあるが、このことばこそ、真実の友情ある人を指して言った言葉である。
別に求めもしないのに、頼みもしないのに、心から思いやりをこめて、すぐにやってきてくれる友だち。
この不請の友とは、実はみ仏そのひとのことをいうのです。
み仏は人間と違って、永久に変わらざる思いやりを、悩める人々に注いでいるから。
一生涯を通して、幼い時から変わらざる友人をずーっと持ちつづけることができたら、どんなに心強いことだろうか。
それはあり得ない、まして、人間は自分自身を孤独に追いやっている。
人間はおかまいなしに、憎しみ、恨み、怒り、いつでも敵を作り、歯をむき出さんばかりの憎悪を抱き、争っている。
そんな、人間の姿の根底をあまりにも有名な京都・広隆寺の弥勒菩薩は見つづけている。
そのように憎み、怨まなければならない人間そのものを救わんと努力するのが、み仏の願いでもあります。
ときにはほほえみ、ときには怒り、ときには涙せんばかりのお顔は、まさに悩める人々とともに悲しみ、ともに笑い、ともに力づけあおうという(慈しみ)のお顔です。
赤松の素材で、指の先まで一木造りの仏像は「本当に完成され切った人間(実存)の最高の理念が、あますことなく表現されつくしている」
と哲学者ヤスパースは絶賛している。
ともかく、素晴らしい表情にすぐにでも会いたいものです。
参考:仏像入門(石上善應著)