心の手足を使い挑戦と努力の人「中村久子」
仏教の法典の中に、ブッダ(釈迦)が在世当時に話していたとされる短い金言を集めた経典があります。
「ダンマパダ」といって、仏教のバイブルともいわれています。
ダンマパダのダンマは「法」でパダは「句」という意味で、直訳すると法句となります。
ダンマパダは、全部で423偈(げ:声に出して唱えられる短い文句)の金言集であり、ミャンマーの僧侶などには経典に関する試験制度があるので、多くの仏典を暗記しています。
さてその解説書の中で解説者「釈徹宗」の書籍の中で、中村久子さん(1897~1968)のことが記されていました。
以前から興味もありましたので、早速、娘さんの富子さんが書かれた「わが母 中村久子」を読みました。
中村久子さん
中村久子さんは、岐阜県の高山に生まれました。3歳の時に足の霜焼けがもとで突発性脱疽(だっそ)になり、とうとう両手両足を失ってしまった。
7歳の時に、父親を亡くし生活が窮之となり、食べるために当時の見世物小屋に「だるま娘」という名で出演しました。
しかし、お母さんの「何でもできなくてはいけない」という厳しさと久子さんの持ち前のたくましさで、料理から裁縫、お風呂も一人で入るほど自分でできたそうです。
結婚して子供を産み、立派に育てています。
母親としての思い
娘さんの富子さんの本の中で、富子さんが通っていた女子高校の時の話があります。昔からの閉鎖的な校風でそのことで先生に反抗的になり、とうとう、母の久子さんが先生によばれてしまった。
当時、朝鮮に行っていた久子さんは義足を履いてたった一人で、はるばる三日かけてやってきたのです。ひとりでは小用をできず、そのことを富子さんがたずねると久子さんは、「我慢して三日間飲まず食わずで来た」と答えたそうです。
連れがいれば、なんのことなく用を足すことができたんだそうで、一人だとできにくい、それで飲まず食わずできたとのことでした。
このことが富子さんは心苦しく申し訳ないとなんと詫びればよいのか苦しい思いでいるときに久子さんは「母さんは子供の時分にトイレの我慢をさせられた。したくてもできなかった。連れて行ってもらえなかった。」その時の我慢がいまここでお前のために役に立つとは思わなかった。
「人間どんなことがあっても、どんなことも我慢するときはする。苦労するときは苦労する。それが何かの時に役に立つ。」そういって笑ってくれた。
先生との話の時は、娘のことで誤り、あとは何も言わなかったそうです。
そして、
富子さんに「”元気” といい ”頑張るのね” 」と先生の話もせず一言だけ言って帰ったそうです。
その後、先生は男泣きに泣いて、君のお母さんが両手両足のない人だということを知らなかった。
手紙を見て、お母さん自ら見えた。
「富子が大変失礼しまして申し訳ない」と頭を下げられた。
そんな親はどこにもいないと言われ、だいたい電話をして学校へ出てきてくださいと伝えても親はなかなか出てこない。学校に来てもうちの子は悪くないとか苦情を述べるだけです。
それなのにわざわざ遠いところからお母さんが来られた。
ひたすら先生の言葉を聞いて最後に「わかりました。今後こういうことはないと思います。ありがとうございました」と頭を下げただけということです。
何でもできる
久子さんの芸は、口で筆をくわえて字を書いたり、編み物したり、切紙細工とか裁縫、糸結びなど普通の家庭の主婦がすることでした。
大正琴が世に出始めると腕の先に包帯を巻き突起物を挟み込んで指の代わりに抑え込みとても上手に弾いたそうです。
料理はとても上手で、包丁を脇の下に挟んで使い、歯磨きも耳かきも水道の蛇口をひねるのも両方の肘を器用に使って自分でしていました。
自分でやれないことは、髪をすくこと、着物を着ることぐらいだったとのことです。
久子さんはお母さんのことを「私のために鬼になってくださった」と言い続けていた。周りの人は鬼とかいじめているといっても、久子さんは鬼になるほうがどれだけつらかっただろうと。
ヘレン・ケラーと
久子さんはヘレン・ケラーと対面しています。
ヘレン・ケラーが来日して久子さんの体に触れて、ハッと気がつき「私よりも苦労している人、そして偉大な人がいる」といって滂沱の涙(涙がとめどなく流れる様)を流して抱きしめたといいます。
歎異抄との出会い
久子さんは、親鸞聖人が日常話していた言葉を唯円という僧侶が書いた「歎異抄」と出会ってからは「そうか、泥の中でも咲く花になろうとして生きてきたけれど、間違っていた。私は泥があるから咲けるんだ」と目覚め次の詩を書かれています。
「ある ある ある」
さわやかな秋の朝
「タオル とってちょうだい」
「おーい」と答える 良人がいる
「はーい」という 娘がおる
歯を磨く 義歯の取り
外し 顔を洗う
短いけれど 指のない
まるい つよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな 秋の朝
この詩を書く前まで「ない ない ない」と苦しみながら生きてきました。
手も足もない、金もない、親もいない、ない、ない、ない・・・・
久子さんがある寺で講演をした冒頭にこんな話をしています。
「みなさん、私の姿を見て、さぞや苦労してきたことだろう。今日は立派な話が聞けるだろうと思っておられるかもしれませんが、みなさんにお話しできなるようなすばらしい話はなにもありません。
それどころか、ずっと仏法を聞かせていただいてまいりましたが、私は立派な人間にはなれませんでした・・・・
ただ、仏法を聞かせていただいているうちに、自分という者がどんな人間かがよくわかりました」引用:ダンマパダ(釈徹宗著)
と話しています。
すごい人ですね、なかなかこのような方はいませんね。
娘の富子さんは、手も足もない無いのに何でもできる母が自慢だったそうです。
恥ずかしいと思ったことは一度もないと書いてある。
参考:わが母 中村久子(中村富子著)、ダンマパダ(釈徹宗著)