一番おいしい料理は ”お母さんの料理だ”
帝国ホテル総料理長
日本でフランス料理のシェフと言ったら、元帝国ホテルの顧問の村上信夫シェフでしょうね。
何年も待って帝国ホテルの見習いとして入社したのが1939年です。
「ムッシュ村上」として日本にフランス料理を広めた功労者です。
そんな代表的な存在でありながらNHKの料理番組「きょうの料理」のレギュラー講師として家庭へプロの味を広め
た。
「帝国ホテル 厨房物語」村上信夫著を読んだ記憶の中から心に残ったこと思い出したこと感動したことを書いて
みます。
1921年(大正10年)生まれの村上シェフは12歳から銀座「つばめグリル」「新橋第一ホテル」などの洋食店で働き、19歳の時に料理人の雲の上の存在であった、あこがれの帝国ホテルに入社する
そして「鍋屋」とよばれる鍋や皿を洗い雑用をこなす下働きから始めさせられた。
厨房に何百もある鍋を洗うのは並大抵ではないですね。
そして、鍋や皿をきれいに洗いつづけたことで認められシェフ達に気に入られ、時にはソースを付けたまま洗い場に回してくれるようになり、鍋に残ったソースをなめて料理を勉強することになった。
洗い場での働きが認められ村上シェフは1年あまりで厨房へ入り朝食係、スープ、アラカルト、オードブル、定食、グリル、宴会の各担当をこなした。
と同時にメニューの漢字やフランス語をおぼえることもしなければなりません。
そのさなか、1942年(昭和17年)に厨房で働く13名のスタッフとともに入隊することになりました。
陸軍への入隊前に一流のシェフ達から餞別として、秘伝のレシピを教わることになりました。
これは、当時大変なことで誰にも見せず誰にも聞かせてない秘伝です。
出征時にもらった餞別は
「お前はどうせ戦争で死ぬんだから、秘密は漏れない」などと言いながらも、教え方には「生きて帰ってこいよ。また一緒にやろう」という真心がこもっていて、胸が熱くなった。
と語ってます。
たとえば、吉田シェフからポテトサラダ、筒井シェフからシャリピアン・ステーキ、一柳シェフからは薫製をつけこむ液の配合を教わり、各名人からの秘伝のレシピは、30くらいだったそうです。
帝国ホテルの調理場から出征した13人のうち帰還した人は村上シェフを含めてたったの3人という。
1957年に帝国ホテルの伝統に従いイギリス王室の料理人でさえもイモの皮むきからやらされる名門中の名門「ホテル・リッツ」で本場のフランス料理を学びました。
やがて、帝国ホテルの新館料理長に就任し約20名の厨房全体を指揮する立場になりました。
当時料理は先輩の料理を見よう見まねで覚えその技を盗むのが普通だった。
昔流の封建的な帝国ホテルにフランスの最先端の料理を取り込み、料理だけでなく修行の方法や後輩の教育など日本独特の古い封建的な現場から楽しくおいしい料理を提供する職場へと変えていきました。
シェフ個々人が持っていたそれぞれのレシピを 自ら進んで公開することで、帝国ホテル全体の底上げと後進の育成に役立てました。
1964年(昭和39年)には東京オリンピック女子選手村の食堂「富士食堂」で総料理長をつとめ約300人のコックのリーダーとして、各国の選手のために腕をふるった。
食べ放題の料理スタイルを研究するように言われ、そこから「バイキング」を考案した。
日本にフランス料理を広めた功績として、黄綬褒章をはじめ、数々の賞を受賞しています。
料理の極意は
一番おいしい料理は何かの答えは「お母さんの料理」といい「研究」「愛情」「真心」を挙げています。
おいしい料理をみんなに食べさせてあげたいという「愛情」、本やテレビなどで学ぶ「研究」ごはんの時間に合わせて準備し、その時間においしく食べられるように計算し動く「真心」。
その3っつがそろえば料理はおいしいと言っています。
参考:クックドア、Wikipedia、昭和のことば(槇野修著)