飛脚 あらよっと! ナンバ走りだ!
飛脚
飛脚と言えば、宅急便の佐川急便の飛脚マークが浮かびます。
飛脚は当初はほとんど公用としてありました。
中世の京を中心に駅(うまや)が設けられ、使者が駅に備えられた駅馬を乗りついでいた。
鎌倉時代には、鎌倉飛脚・六波羅飛脚(かまくらひきゃく)が整備された。
室町時代になると京都御所と鎌倉府を結ぶ「関東飛脚」が設けられた。
戦国時代は各地に領国の要所に関所が設けられたため領国間にまたがる通信は困難を極めた。
江戸時代に入り、日本橋を起点とした東海道、甲州街道、中山道、日光街道奥州街道の五街道ができ、宿場なども整備された。
この交通の基盤が確立されたことにより、飛脚による輸送・通信通信制度が整えられた。
江戸の飛脚は馬と駆け足を使って公儀の他、大名や武家・町人なども利用し飛脚屋・飛脚問屋などの制度も発達し当時の主要な通信手段の一役を担ってきた。
飛脚が運んだものは、信書だけでなく小荷物や金銀までも運んだ。
飛脚の種類には
継飛脚:幕府の老中など偉い人のみが使える超重要公文書を運ぶ飛脚です。
二人一組で一人の送付が御用と書いた長柄の高張提灯を持ち、もう一人の走夫が小葛籠に御用の札を附したものを肩に担いで輸送した。
- 大名飛脚:大名飛脚は江戸と国許の間を結んだ飛脚で、尾張藩 や紀州藩が整備した「七里飛脚」が知られている。
- 町飛脚:郵便制度
町飛脚は、1663年(寛文3年)当初東海道の江戸・京都・大坂三都で行われ、その後には上州高崎や新潟など各地で展開し営業範囲を広げていった。
また、五街道の主要都市だけでなく主要都市から各地方にも町飛脚が普及した。江戸町飛脚は、江戸町内に限定して行われた飛脚であり、風鈴を鳴らして書状を届けた。ちりんちりんの町飛脚と呼ばれていた。 - 通飛脚(とおしびきゃく):出発地点から目的地まで通して一人で運ぶ飛脚などがあった。
各宿場には、継飛脚が置かれていて、リレー形式でひたすら走り続けていた。
江戸で出した手紙は人力の走りだけで最短3日で京都に届いた。
江戸から京都までは約500㎞もあります。
いくらリレー形式といえども、コンクリートがひかれているわけでない、ごつごつの道を突っ走るってすごいことですね。
もし、その人たちが現代の駅伝に出たらどうなるんだろうかと、想像してしまいますね。みんな山の神になるだろうな。
走るときのスタイルは
- 上半身もろ肌脱いで、足に脚絆を装着
- 股引きのようなパッチを1枚だけはいて
- ふんどし一丁の時もだったようです。
飛脚走り
飛脚走りは別名「ナンバ走り」ともいい「右手と右脚、左手と左脚を同時に出す」走り方です。
江戸時代の飛脚の走り方といわれています。
残念ながらその「ナンバ走り」は現代には伝わっていません。
また、映像や資料もなくホントかどうか証明できない伝説の走法となっています。
江戸~京坂 当時のシステム
- 「並便り」:最低料金だが日数の保証はない片道約30日を要した
- 「十日限」(とおかぎり):所要十日
- 「六日限」:所要六日
- 「正六」「定六」:定飛脚で江戸ー上方を6日で走る定期便
- 「四日限仕立飛脚」:火急の書状、料金4両を要したと説明されています。
現代の飛脚さんたちも、毎日荷物があるか顔を出してくれて朝から晩までよくはたらいてますね。
おかげで、荷物を運ぶことがなくなり働く時間も短縮されてます。
あらためて、感謝したいと思います。