しっかり目を開けて夢を見よう

心しなやかに豊かに「ゆるす」ことが大事

誰でも自分を認めてもらいたい肯定してほしいと思う心ががあります。

この思う心が少しならいいのですが、過剰になると気持ちの整理がつかなくなりますね。

許せなくなる

完璧な人はいない」とよく言われます。
たいがいは「そのとおり」と思いながらも、自分や他人が完璧でないことにいらついたり、責めたりしてしまい、相手を許せなくなります

せっかく考え抜いて出した企画が却下されたようなときは、自分から「もういいです。」とこの企画を引っ込めようと反応してしまう。

これは、すべてが否定されたと思って拗ねてしまっているのです。

この企画すべてがダメということではなく、方向性やポイントのずれ、明確な意図が見当たらないなど、もう少し内容を練る必要があるのではないかというとらえ方をして、次につなげるようにしなければいけません。

拗ねる、甘える

拗ねてしまうと気持ちが縮こまり、そこから動きが止まってしまい前に進むことができなくなるだけです。

それよりも、「どのあたりに問題があるのか」「どこを工夫すればよいのか」謙虚に聞く耳を持つことが重要です。

素直に相手の意見に耳を傾けることで、また一歩前進できますし、周りの人からも期待される人間とおもわれることになります。

拗ねる人の気持ちの奥底には「甘え」があると言われます。

拗ねる甘える

拗ねていたら誰かが声をかけてくれて「いい企画なのに課長はわかってくれないね」など同情の声をかけてくれると、心のどこかで思っているのです。

これが、甘えです。自分ではなかなか気がつかないことが多いです。
それは、拗ねる原因をいつも外部に見つけようとしているからわからないのです。
わからない彼が、理解してくれない彼女が、強く言われた上司、あんなことしたあいつが、自分を苦しめるのだと考え、自分の甘さは棚に上げてしまっている。

外部に目を向けるのではなく、自分の内部に目を移してみることが大切です。

二人の禅僧の話

禅の話につぎのようなあります。

二人の禅僧が川の渡ろうとしていました。
するとそこへ美しい女性が近づいてきました。
その女性も向こう岸に渡りたいようですが、川の流れが速いので困っていました。
そこで、年上の禅僧が「背負ってまいろうか」というと、女性はうなずき、禅僧が女性を背負って渡りきり、女性はお礼を言って去っていきました。
女性が見えなくなるとすぐに、若い禅僧は年上の禅僧を非難しました。
「恥ずかしいと思いませんか。私たちは女性の体に触れることを許されていないのですよ」
寺にたどり着くと、若い禅僧は年上の禅僧の行いを寺Sの住職に報告すると言います。
「あなたは禁じられている下品な行いをしました」
年上の禅僧はわけがわからないといった様子でたずねました。
「私が何をしたというのだ」
「美しい女性を背負って川を渡ったじゃありませんか」
「ああ、あのことか、お前の言うとおり、たしかに背負った。だが私は川岸に女性を置いてきたぞ。お前はまだ女性を背負っているようだな」

引用:ハーバードの人生を変える授業

中国の古典に「満招損」(まんはそんをまねく)という言葉があります。
満(おごり高ぶった心)は損を招きよせるという意味です。
拗ねる心もまったく同じようなものですね。

わだかまり」を抱えていたら手放し、不要な重荷をおろし、そのことは許して心のびやかに過ごしましょう

参考:ハーバードの人生を変える授業(タル・ベン・シャハー著)、
ゆるすという禅の生き方(枡野俊明著)

 

 

 

 

 

 

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