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能・狂言の世界からやってきた言葉

宴会などで皆 ”ノリ” がよくて盛り上がってるねなどという言葉をよくききますね、あの ”ノリ” とはいったいどこから来ているのかと調べたら・・・なんと能・狂言の世界からの由来だった。

そして能・狂言からの由来の言葉は現在の私たちが普段何気なく日常使っている言葉がたくさんあるのです。

そんな言葉を拾い出してみました。

能・狂言について

その前に、能や狂言は奈良時代に中国大陸から移入され、やってきた「散楽さんがく」という芸能スタイルがルーツとなっています。


散楽は中国の唐代以前は、「百 戯」と呼ばれ、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、どちらかというと遊興的、娯楽的要素の濃い芸能の総称のようでした。

そののちに散楽が発展し、散楽がなまり「猿楽」になったともいわれ、特に滑稽な物真似芸が特に人気を集め神社などの神事でも盛んに行われるまでになった。

その後、室町時代には観阿弥と世阿弥の親子によって大成され、今日まで続く伝統芸能とまでなったのです。
もう少し詳しくはこちらをご覧ください。

初心忘るべからず 真意は

こんな古くから伝わってきた能や狂言の言葉の中に、私たちがよく使っている言葉があるとは興味深いですね。

狂言

ノリ(乗)

前述した「ノリがいい」は、能・狂言では謡やお囃子のリズムの取り方をノリと言います。
謡とお囃子のスピードや表現が上手にされていて、「今日はノリが良かった」などとつかいます。

「初心忘るべからず」

この言葉は、約650年前能を大成した世阿弥(ぜあみ)が編み出した言葉です。
今日までつづくの能の基礎をつくった天才の世阿弥はいくつもの名言を世に送り出しています。

一般的には「なにごとも初めて行う時に志を立てる」その志した初心を忘れてはいけないということ。
何事にも慢心しないで、取り組むことですが、世阿弥からはもっと奥深い複雑で繊細な意味のようです。

埒(らち)があかない

物事がどうにも進まず、いつまでたっても進展しないという意味。
埒とは、囲いや仕切りのことを指す言葉です。

「らちが明かない」の語源は諸説ありますが、その1つに平安時代に競べ馬 (くらべうま)(馬の競走) という行事が神事として行われていました。その競べ馬も,馬場の囲いの埒が開かれないことには始まりません。そこで,予定されていたものごとの第一歩目が踏み出されれば,その後も予定どおり順調に進行するというわけで,その第一段階が開始されることを 「埒が開く (あく) 」 と言ったそうです。

引用:ふれあい漢方

三拍子揃う

三拍子は能楽の小鼓こつづみ大鼓おおつづみ、太鼓(または笛)の三種の楽器でとる拍子のことをいいます。
音の強弱やスピードなど三拍子が揃うことで調和がとれることから、必要な三つの大切な要素、また、すべての条件が整っている意味となった。

昔は良い条件のみに用いられた言葉でしたが、江戸後期頃から「飲む・打つ・買う」など、悪い条件が揃っていることも「三拍子揃う」と言うようになった。

能楽の三拍子

芝居

現代では芝居を観る時は椅子に座って観ますが、昔、猿楽は神社の境内で演じられていて、屋外のために椅子などなかった。
見物客は芝生の上に座って鑑賞していた。このことから客席を「芝居」と呼ぶようになり、やがて客席だけでなく劇場そのもの、そして演劇事体が「芝居」と呼ばれるようになった。

番組

私たちが毎日のようにテレビやラジオの番組を気にしますね。
この番組は、能・狂言の演目を一番・二番と数える事に由来します。

いくつもの番を組み合わせた表を、「番組」と呼ぶようになったといわれています。

テレビの番組表にはタイトルや出演者名が書いてあるように、お能の番組にもタイトルや能楽師の名前が規定通りに書かれています。

役者・脇役(シテ・ワキ)

現在では映画や演劇などの女優や俳優のことを「役者」といいます。
能・狂言の世界でも、演目の中で役に扮する方を指す言葉として使われています。

また、主役ではない役柄で演じる人のことを「脇役」と言いますね、主役を引き立てて、その役に扮します。

能楽では主役を「シテ」と呼び、シテの相手方を「ワキ」と呼びます。
主役であるシテ方は幽霊や妖怪などとして現れますが、ワキ方は能を見ている観客と同じ人間として存在します。
ワキ方は観客と能の舞台をつなぐ役割も担っているのです。

なるほど、感心するほど、たくさんありますね。
日常生活の中に能や狂言の言葉飛び交っている訳ですから、伝統芸の能や狂言に興味を覚え
身近なものになってくるのが不思議です。

参考:ワゴコロ日本文化いろは事典

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