惟喬親王伝説と滋賀県蛭谷集落は木地師の里
田んぼに棒が7本付き刺してある。水を張った田の隅には細い木の枝の束が置いてある。
「鼻水が出たらティッシュを丸めて鼻に詰めるやろ。それと同じや、中におるカニさんが底に穴あけてな、田が水漏れするさかい、木を刺しといたんだわ」
と、ここは滋賀県東近江市の甲津畑(こうづはた)集落の蛭谷(ひるたに)集落の棚田での話です。
この甲津畑集落は戦国武将らが往来した近江と伊勢を結ぶ千草街道の玄関口にあたる。
織田信長が馬を繋いだと言われる黒松も健在です。
その甲津畑で暮らす人々が開墾したのが、小高い山ひとつ越えたところにある長谷の棚田で、水田(みずた)と言われる湿田は、東にそびえる鈴鹿山脈からの湧水で1年中潤っている。
そして愛知川上流の蛭谷と君ヶ畑は、日本全国の木地師の聖地で、かつては木地の生産が盛んに行われていたが、現在ではまったく姿を消している。
木地と木地屋は
(1)木の地質(木目),(2)細工物の粗形,(3)とくに指物・漆器などに漆その他の塗料を加飾しないものをいうが,このうち(3)を製作することを生業とした職人が,近世以来ひろく〈木地屋〉と呼ばれていた。
引用:世界大百科事典
木地師とは
トチ・ブナ・ケヤキなど、広葉樹の木を伐採し、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆、コケシなどの木工品を加工製造する職人のことで、轆轤師とも呼ばれる。
引用:Wikipedia
当時は、大阪、名古屋をはじめ日本各地の木地師たちの団体が、蛭谷の筒井神社に参拝に来ていた。
筒井神社は、第五十五代文徳(もんとく)天皇の長子の惟喬親王(これたかしんのう)をが、平安時代の前期に皇位継承争いに敗れて、京都を離れこの地に隠棲していた親王を祭神とした。
惟喬親王伝説
惟喬親王は今から約1200年ほど前、法華経(ほっけきょう)の巻物の「巻軸が回転する原理」から轆轤を思いつかれ、手遊びに綱引轆轤を考案し、周辺の人々に木工技術を伝授したと言われる。
この伝説が、木地師たちの間で広まり、全国の木地師たちは惟喬親王こそが「ものづくりの祖」であり、この地の小椋谷を自分達の祖先の地と認識し信仰していました。
江戸時代には近江商人(日野商人)が、商圏を関東やその他まで拡大していました。
近江商人が扱った初期の代表的な商品は、木地の椀で、日野椀と呼ばれ人気が高かったそうです。
政所茶
また、かつては「宇治は茶所、茶は政所」と茶摘みの唄にも歌われ幕府や朝廷にも献上された程の銘茶が生産されていました。
そもそも、日本で最初にお茶の木が育てられたのが、滋賀県だったと伝えられていて、滋賀県とお茶のかかわりは深いのです。
木工職人の本拠地であった村々でしたが、農作物としては霜や雪害がひどいため、粟や稷などの雑穀ぐらいしか生産できなかった。
そこへ、紅葉の名所として知られる臨済宗の禅寺、永源寺の越渓秀格禅師が、政所周辺はお茶の栽培に適しているとして、お茶を伝えて栽培を奨励したのが始まりでした。
越渓秀格禅師が想像したとおり、谷筋という地形や環境によってによって生じる寒暖の差と、愛知川によって生じる朝霧が、銘茶「政所茶」を生み出しました。
応仁の乱のころ、永源寺の学僧たちが「政所茶」を京の都に伝え、その味わいが評判となり、その名は各地へと広まりました。
戦国時代には、幼少の石田三成が秀吉に献じたとされる三杯の茶の逸話「三献茶」は、「政所茶」だったといい、風味に富んだ「政所茶」は、秀吉のお気に入りのお茶になったといわれています。
日本の原風景が色濃く残る山村風景の鈴鹿国定公園、その半分は東近江市が保有しています。
「21世紀に残したい日本の自然100選」にも指定されています。
地元の人は「こんな田舎におっても、いろんな人が訪ねてきてくださる。それぞれの土地のことを教えてくださる。
縁ってもんは、大切にせんとあかんのですわ。」とお互いの存在を確認する。
引用:奥永源寺、Wikipedia、里の時間(芥川仁、阿部直美著)